忍者ブログ

今日も てくてく

奥さんの死、本人のガン発覚・手術。そして退職し現在無職。大丈夫なのか?!

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

奥さんの告別式


2015年7月21日1時7分  

お母さんが亡くなった



みんな泣いていた
みんな悲しんだ

もちろん私も



でも、これから告別式の準備をしていかなくてはならない

喪主は私がすることになるだろうし
悲しんでいる暇はなかった


喪主をする人は通常 故人の一番近い人
故人が亡くなって一番悲しむ人である

にもかかわらず告別式の準備や喪主など、忙しく行わなければならないのは
悲しみを紛らわせる意味もあるのではないだろうか




みんなICUから出て控え室にいると担当の先生が来られた

解剖に協力して欲しいと言うことだ

大学病院だからそうなるだろうと思っていた

お母さんを大切に扱っていただけるなら
と、了承した



解剖のことはみんなには言わなかった
いや、言えなかった



すぐにはお母さんを連れて帰れないので
みんなには一旦帰宅してもらう



告別式は身内のみでひっそりと行うつもり

自宅近くの小さなセレモニーホールにお願いした
21日12時に病院まで迎えに来てもらう事になった

一旦私も帰宅した


帰ったら真夜中3時頃だったかな

少し寝ようと思ったが眠れない

しばらくして、悲しくてどうしようもなくて、
お母さんに着せるための新しいパジャマを持って再び病院へ行った


解剖は終わっていてお母さんに会わせてくれた

6月30日に生体肝移植手術を行い、息子の肝臓が半分お母さんに移植され
21日までの間に、移植されたお母さんの肝臓は1,3倍に成長していたそうだ

ちゃんと肝臓は付いたのにな
手術は成功したのに・・・


しばらくお母さんの横に居て
ICUを出た

その後は車の中で朝をむかえた



12時前、
お母さんが安置されている場所へ行く

簡単な祭壇になっている


移植コーディネーターの方や看護師さん、肝胆内科の先生などが見送りに来てくれた
手術を担当してくれた先生は他の手術のため来れないらしい

先生は本当に全然寝てないのではないだろうか?

先生に最後にお会いしたとき、
申し訳ありませんと泣いてくれた

私は先生に恨みなど持っていないです
むしろ感謝しています

先生、大変お世話になりました
ありがとうございました




12時ちょうどにセレモニーホールの車が到着

お母さんを車に乗せて
見送りに来てくれた皆様にお礼の言葉を言う


今回はこのような結果になってしまったが、
お母さんの死を何かの役に立てて下さいと、
これからも一人でも多くの命を救ってくださいと


移植コーディネーターのお二人はとても顔なじみになっていたのだが
二人とも泣いてくれた

他にも泣いてくれた方がいた

病院に対しても恨みなど持っていない
本当にお世話になりました






会場のつごうで
22日にお通夜
23日に告別式となった

お通夜も告別式も、どこで聞きつけたのか大変大勢の方々が来てくれた

告別式では座る席が無いほどだった


こんなに大勢の方々にお母さんは慕われていたのだなと
あらためて感じた


私はお母さんに対して申し訳なさで一杯だった






告別式も滞りなく終わり斎場へ


点火のスイッチは私が押す
申し訳なさがさらに深まる


生前お母さんは
私が死んでも一人でお墓に入るのは寂しいから
と言っていたので
遺骨は今も自宅の仏壇にある

毎日、朝・晩お母さんに声をかけている




お母さんが亡くなって1年半以上経ったが
お母さんに対しての申し訳なさは未だある



お母さんの人生どうだったのだろう
私と結婚して良かったのだろうか
もし私と結婚していなかったらこんな事にはなってなかったのに…

あの時なんでもっとやさしく出来なかったのか
あの時ああしておけば…


申し訳ないのと後悔ばかりです


私は現在49歳ですが
人によっては再婚などと言う人もいる

再婚は全くする気無しです


私の奥さんはお母さんだけでよい

それに多分、私は女性を幸せに出来ない人間なのではないかと思います




お母さん、本当にごめんな


今度生まれ変わるなら
もっと健康でもっと裕福なところへ生まれておいでよ


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします
PR

ごめんな、お母さん


もう意識は戻らないと伝えられ

それでもこのまま治療を続けるか
人工呼吸器を外すか

2つの選択をせまられた


身内達は私の考えに従うと言ってくれた



悩んだ


決められん・・・



そして15時が過ぎた頃、先生から話が

非常に危険な状態です
あと数時間しか持たないかも知れない
ICUを開放するからしっかり会ってあげてください・・・と



もうこれまでなのか・・・

身内達に伝える

義理の姉が
私に酷な選択をさせないようにしてくれたんじゃな
と、泣きながら言ってくれた


眠っているお母さんに会いに行く


これからなのに・・・
お金にもちょっと余裕がでてきて
これから色々と楽しいことが待ってるのに

眼を覚まさんかな・・・


お母さんは静かに眠っている





時間だけが過ぎてゆく

もう23時をまわった



お母さんのお友達も来てくれた
みんなお母さんの周りにいるよ



深夜0時をまわった


後数時間と言われていたが1日乗り越えたな


しかし心拍は弱くなっている
どんどん数値が小さくなる



お母さんの手をにぎる
とても冷たい

私は両手でお母さんの手を暖めた




ついに心拍が 0 になった


お母さん!頑張れ!
手を強くにぎる


すると再び数値を刻み始めた


良かった~



しかし、しばらくするとまた0に


お母さん!


みんなも一斉に声をかける

するとまた心拍が上がりだす



それを何度も何度も繰り返した





そして深夜1時が過ぎた頃
ついに心拍が0のままになってしまった


お母さん!


もう数値を刻むことは無かった







2015年7月21日 1時7分  永眠

お母さんの実母が亡くなった日と同じ7月21日だった






お母さんの最後に、みんな泣き崩れている

私ももちろん泣いていた





よう頑張ったな!お母さん!
ごめんな


なぜだか
お母さんに申し訳なくて申し訳なくて仕方ない自分が居た


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

術後 最後の呼び出し



お母さんの身体が悲鳴をあげている

目に見えないような小さなモノによって臓器がむしばまれている

そんなモノに負けたらおえん!




この頃は面会に行ってもお母さんはいつも眠っている
眠らされていると言ったほうがいいか?

人工呼吸器も再び付けられてとても会話などできる状態ではない

それでも毎日会いに行って声をかけた
頑張ろうな
退院したらどこかゆっくり旅行に行こうな とか

聞こえていたら良いのだけどな





7月20日早朝
息子から電話


お母さんの身体が非常に弱っていて血液を自力で循環させることが出来なくなった
目にライトを当てても瞳孔の反応がない
もう意識が戻らないかもしれない
ここ1・2日が山場、会わせておきたい方々がいれば呼んだほうがよい


こう先生に伝えられたようだ


息子も最初は淡々と話していたが
”もう意識が戻らないかも知れない” と言うときは言葉を詰まらせて泣いていた


そうか… わかった、すぐ行く


私はそれだけ言って電話を切った



すぐ会社に連絡して休みをとり
身内とお母さんの友達等に連絡して病院へ向かう



もうだめなのか?

いや、少しでも可能性があるならそれを信じる!
諦めたくなかった



病院へ到着し担当の先生から改めて説明を聞く

少しでも可能性があるならと思っていた私の想いは崩れ去った

多臓器不全に陥っていて
心拍もかなり低下している

人工呼吸器と人工透析で生命を維持しているのが現状で
仮にそれが改善されたとしても意識は戻らないという

はっきりとは言わなかったが
いわゆる植物状態である

先生は、もちろんあらゆる処置を施すとおっしゃってくれたが

今のままの状態で処置を続けていくのも有りだし
人工呼吸器・人工透析を停止するという選択肢もあるという




今後どちらの方向にするか選択をせまられた



身内が到着して先生からの話を説明する

このまま延命治療を続けるか、人工呼吸器停止させるか




そんなのすぐには決められないよ…




回復のめどがないのに植物状態のままずっと寝かせておくのも痛々しくて可哀想だし
かと言って人工呼吸器を停止させるのも諦めてしまうようでいやだった






お母さん・・・
本当にもうだめなのか・・・


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

生体肝移植術後 容態急変


真夜中に携帯が鳴る。

大学病院から!

電話にでると担当の先生。
お母さんの容態が急変したとの事!

移植手術が終わってからICUで毎日色々なデータをとり続けていて、
これまですべて安定していたのだが、急変したのだ。

急いで病院へ向かう。

真夜中の道を思いっきりとばす。

日中は4・50分かかる道のりを30分弱で到着。

ICUに入ると担当の先生が色々と処置をしていてくれて、だいぶ落ち着いたようだ。

良かった!


感染症の一種だったかな?

これまで移植した肝臓も順調に機能していたのに
急に機能低下したと言うような内容だったと思う。

ひとまずは乗り越えた。
今は安定を取り戻している。

免疫抑制剤を使用している為どうしても感染症は避けて通れないらしい。

それを一つづつ乗り越えて良くなっていかんとな!
頑張ろうな!お母さん!

身体に負担がかかるため今は眠らせているとの事。

先生にしっかりとお礼をする。

本当に良い先生で、絶大な信頼を寄せている。
多分先生はあまり寝てないだろうし、自宅にも帰ってないと思う。

またよろしくお願いしますと伝えて病院を出る。

翌日夕方、面会へ行ったが、この時も眠らせていた。
眠らせていると言っても、声は聞こえているかも知れないらしいので、
しっかりと元気づけて帰る。



それから3日後ぐらいだったか、再び夜中に病院から電話!
今度は前回より深刻な状態だという。

大急ぎで病院へ行く。

お母さん!頑張れ!お母さん!頑張れ!

病院へ向かう車の中で何度も繰り返す。

ポリに捕まろうがそんなこと知ったことじゃない!

猛スピードで病院へ向かった。



ICUへ入ると息子もいた。

その時にはちょっと落ち着いていて山は越えたらしい。

先生が、お母さんの心拍が低下し心臓が止まりそうになったので
急いで息子を病室まで呼びに行き、私に電話くれたという。

非常に危険な状態だった。

色々処置してくれて、今は落ち着いているが
重度の感染症のよう。
油断はならない。

息子がお母さんに話しかけているが、聞こえているかな?

息子は術後、自分も腹を切っていて動けないのでお母さんに会えていない。
話も出来ていない。

お母さんは眠っている。

頑張ろうで!お母さん!

まだ安心はできないが、とりあえず今度も乗り越えた。

ICUを出て息子と話す。

息子もだいぶ動けるようになっているので、
お母さんの様子をしっかり見に行くように頼んで帰宅。

もちろん私も毎日夕方には病院へ面会に行った。




それから数日後、息子から、”先生から話がある”と連絡が入る。

会社を早退して病院へ。

先生の話では、やはり感染症がひどくて
病院内にあるすべての抗生剤が効かない菌に感染していると言われる。
もちろん最大限の処置は行うと言って下さったが。


菌なんかに負けたらおえん!
頑張ろうで!お母さん!

まだまだこれからなんじゃから!

絶対今回も乗り越える!
絶対よくなる!





そう信じていた。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

生体肝移植手術 術後

お母さんの生体部分肝移植は成功しました。

14時間近くの大手術でした。

成功して良かった!

その夜私は病院に泊まったが、翌朝お母さんには会わなかった。

やはり大きく胸を開く手術であるため、しばらくは麻酔の効いた状態であることと、
拒絶反応を防ぐため免疫抑制剤を使用しているので感染症の心配がある。

外部から菌を持ち込まないため、しばらくは面会は自粛しようと考えたためです。


息子は術後一晩ICUに入り、翌朝一般病室へ移りました。


息子に会いに行く。

息子も大きく胸を開いているのでまだまだ動ける状態ではない。
意識は普通にあるけど、色々管をつけられて痛々しい。

あまりふれてなかったが、息子の肝臓を半分お母さんに提供してもらった。

肝臓の大きさ・血管の通り道等によって、切除できる位置・量がかわるのだが、
息子の肝臓は大きさ・血管の通り道も非常に良く、
約半分も提供することができた。

ありがたかった。

息子にも家庭がある。
しばらくは仕事もできないので、収入もなくなる。
そこらへんのフォローは任せろ。

ちょうどボーナス時期で、もらえたボーナスには手をつけていないし、
お母さんの障害年金にもまったく手をつけていないので、
息子の家庭に回す予定だ。

少し息子と話して帰宅。

私は翌日から仕事に行ったが、お母さんが心配で仕事があまり手につかなかった。

6月30日の夜に手術が終わって
7月1・2・3日は面会自粛。

4日に面会に行った。

菌を持ち込まないようにしっかり消毒してICUへ。

お母さんの意識はもどっていた。

まだまだ口にも鼻にも管が入っている。

「よう頑張ったな!」と、声をかける。

「苦しい」と、お母さんは言った。

そりゃ苦しいだろう。
大きく腹切ってるし、全身管だらけだし…。

痛み止めのスイッチを持っていたので、
「苦しいなぁ、これが痛み止めのスイッチじゃから、えらかったらこれを押してみ?バシバシ押せばええから」

と、伝える。

背中に鎮痛剤の管が付けられていて、
スイッチを押すと注入されるようになっている。

何度押しても必要な分だけしか注入されないので心配ない。

「息子も良く頑張ってくれた、まだ動けんけど元気そうじゃから、
息子の肝臓、半分もお母さんに付いとるんよ」

と、伝えると、

「ほんまぁ~」

と答えた。

しんどそうであるが、嬉しそうだ。

「もうちょっとの辛抱じゃから頑張ろうな!」

ICUにはあまり長く居られないのでそろそろ帰る。
帰り際、お母さんはバイバイとゆっくり手を振ってくれた。

もっともっと元気付けてあげたいけど仕方ない。
後ろ髪引かれる思いというのはこんな事か。



それからは毎日、仕事が終わると面会に行った。

息子も順調に回復していった。


お母さんもたいぶ痛みは薄れてきたようだが、まだまだしんどいようだ。
それは仕方ない事だと思う。

しかし、気になることが一つ。
手術前、肝性脳症の症状で意味不明なことを言うことがあったが、
まだ、うっすらと症状があるような…。


話しかけても、そっぽを向かれたこともあった。

ICUシンドロームというのだが、
環境の変化により不安精神症状を起こすことがある
と、なにかの書類に書いてあったのでその一種だろうか。
一般病棟にもどると自然回復するらしいのだが。




そして1週間が過ぎた頃だろうか、



夜眠っていると、突然電話が鳴る。大学病院からだ!



つづく


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

奥さんの生体肝移植当日


2015年6月30日
いよいよお母さんの生体肝移植手術が行われます。

朝早く岡大病院へ。

まず息子に会いに行く。
よろしく頼むと少し会話してICU(集中治療室)へ。

お母さんは昨夜からICUへ入っている。

肝性脳症の影響でわけのわからない事を言うことが多かったが、
この日は穏やかだった。

いよいよじゃな!がんばろうな!

ちょっと怖いなとは言っていたが、

しっかり応援しとるからな!しっかり祈っとるから!
と声をかけると、

頼まあよぉ~(頼むね)

と、答えてくれた。

だぶん看護師さんも落ち着かせてくれていたのだと思います。
とても穏やかで、笑顔で会話できた。

嬉しかった。
なんか安心した。
間違いなく成功するだろうと感じた。


いよいよ手術室へ。

まず息子が先に入る。
記憶が曖昧になっているが、朝8時頃だったと思う。
息子は病室から手術室へ入ったので見届けることは出来なかったが、
大丈夫だろう。

それから30分後、お母さんが手術室へ。

お姉さんも姪達も、みんな来てくれた。
三重県から一番上の姉も来てくれた。
(お母さんは3姉妹の末っ子です)

ICUからストレッチャーでお母さんが出てきた。

麻酔の先生の紹介などしてもらう。
麻酔の先生、担当の先生、看護師さん達によろしくお願いしますと挨拶し、
お母さんにみんなで声をかける。

なにやら慌しく感じた。

少し声かけした程度で、足早に手術室に入っていった。



長い緊張の時間が訪れる。
大手術であることは間違いない。

しかし私は絶対成功すると信じて疑わなかった。

岡山大学病院は中四国でも有数の設備が整った大病院。
生体肝移植の実績もトップレベルです。

岡大病院が行った生体肝移植の術後1年の生存率は約80パーセント。

絶対成功する!そう確信していた。



私はこの頃、禁煙を考えていたのだが、
この状況では煙草を吸わずにいられない。
どれだけ吸っただろう?
今でも超ヘビースモーカーです。



長い沈黙が破られる。

16時頃だったと思う。
息子の肝臓摘出手術が終わったようだ。

手術室から出てきた息子に会えた。

みんなでお疲れ様と声をかける。

息子は軽く頷いていた。
もう全身麻酔は解けていたようだ。



お母さんの手術はまだ終わらない。



再び、長い沈黙が続いた。


21時が過ぎた頃、治験コーディネーターの方がやってきた。

手術着を着ていたので手術に立ち会っていたのだろう。

予め用意するように言われていた物をわたす。
もうすぐ終わるようだ。





22時をまわっていたと記憶している。

お母さんの手術が終わった。


いつ手術室から出て来たのかわからなかった。


手術は成功。
ICUにもう入っているらしい。

大勢でICUに入れないということなので
ふた手にわかれる。

ようやくお母さんに会えた。
まだ麻酔は効いているようだ。

ベットで眠っているお母さんはいっぱい管をつけられていて、
顔も少しむくんでいるようだった。

手術は成功したが、あの姿を見たらなんだか複雑だった。

とても痛々しくて、かわいそうで。涙が出た。
みんなも泣いていた。


お疲れ様!よう頑張ったな!

それだけ声をかけてICUを後にする。



14時間くらいの大手術だった。



その後、それぞれ帰路につき、
私は一人病院の家族控え室に泊まった。





ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

奥さんの生体肝移植の準備


2015年6月1日
岡山大学病院へ転院。

まずは内科へ入院し、ここで色々な検査を行いました。

肝性脳症の影響であまり良くわかってない様な状態が多かったけど、
毎日ではない。
意識がしっかりしている時もある。
そんな時は嬉しかった。

ただ、毎日の検査で本人もだいぶまいっていました。

食事ができない状態も続いていた。
なので点滴で栄養分は補っていたが、やはり口から食べた方が良いので、
少しでも食べてもらおうと、本人が欲しがる物はなるべく用意するようにした。
それでもあまり食べれなかったな。


転院して間もなく、息子と共に移植コーディネーターの方達とお会いする。
2月か3月に会ったばかりなのに、
あまりのお母さんの容態の変わりようにビックリしていました。


移植を早く進めた方が良い。


腎臓が弱っている事については、移植後何とでもなるらしい。
本人も望んでいる事だし、私も早く移植してほしい。

この時、生体肝移植のドナーを誰にするか決める。


誰でもドナーになれる訳ではなく、適応基準があって、

・3親等以内の家族あるいは配偶者
・肉体的精神的に健康であること。
・ウイルス感染症が無いこと。
・血液型が一致もしくは適合
・組織適合性検査で適合
・他人に強要されたのではなく、自分の意思で提供を希望される方。

候補は私か息子です。

やはり若い方が良いと言う事で息子に決める。

後は適応するかどうかの検査をしなければならない。

この頃、生体肝移植は健康保険が適用されるようになっていたので、
移植の費用は健康保険の限度額で収まる。
ドナーの費用(検査費用・入院費等)もレシピエント(移植される側)の費用に含まれる。

しかし、もし息子の肝臓が適応しなかったら私がドナーになるわけだが、
その検査費用は自己負担になります。
約10万円。

そこで私が適応しなくて他の人にお願いした場合、
さらに検査費用10万円。

そんな感じになっています。


ブログのタイトルの通り我が家は貧乏ですから…。
一発で息子の肝臓が適応して欲しい。

お母さんは生命保険に入れなかったので何も保障はない。

だからお母さんが入院してから障害年金にはいっさい手を付けず、
6月のボーナスにもいっさい手を付けず、
極力質素な生活をしてお金を貯めた。

お金のことなど言ってる場合じゃないのですがね…。


お母さんが入院してからほぼ毎日病院へ通った。
当時私は町内会の副会長をしてたので2度ほど行けない時があったか?

義理の姉(お母さんの実の姉)も毎日来てくれた。
とても感謝しています。


どうやら息子の肝臓は適応したようだ。


6月30日に生体肝移植(正確には生体部分肝移植)の手術を行うことになった。

お母さんも内科から外科病棟へ移る。

手術の1週間前に息子も入院。


こうして着々と移植手術の準備が進んでいった。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

大学病院へ転院

お母さんが入院してから、仕事帰りは毎日病院へ行った。
もちろん土日も。

最初いろいろあって、同じ病室の人達となじめず
談話室の窓辺で泣いていた事もあった。
そのうち皆とは仲良くなったのでその事は安心したのだが…。

当初、お母さんは普通に歩けたし、すぐに退院できるだろうと思ってたけど、
食欲が無いらしく、徐々に身体が弱っていった。

ものを食べてもすぐに吐いてしまう。

病院にいるのに何でこんなに身体が弱っていくのだろう?
ついには歩くことすら出来なくなってしまった。

たまに分けのわからない事を言うようにもなった。

自分で調べてみたが、肝性脳症の症状のようだ。

病院の説明では腎臓が弱っているとのこと。
同時に肝臓のほうも悪くなっているらしい。

今のところ病院で行っている治療は点滴のみの様だし、
院長先生に相談することにした。

同じ年の2月ごろ、大学病院の移植コーディネーターの方達に
生体肝臓移植の話をうかがい本人も移植を望んでいること。
家族も承知していて、私か息子が肝臓の提供をする意思があること。
などを伝えた。


院長先生は肝臓移植をするにしても、腎臓が悪い状態では移植は難しいと言っていたが、
本人が移植を望んでいると言うことを伝えたら、
大学病院の肝胆内科へ受け入れを要請してくれた。

元々大学病院へかかっていたし、
設備の整った病院へ転院することになりちょっと安心した。

そして2015年6月1日
この病院から救急車で大学病院へ。
院長先生と私が付き添いで救急車に同乗した。

この時のお母さんは全く起き上がることも出来ず、
肝性脳症の症状もかなりひどくなっていた。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

奥さんの入院

私は奥さんのことを"お母さん"と呼んでいるので、ここからはお母さんと書きます。


お母さんの障害年金がもらえるようになって生活は非常に楽になった。

ただ、お母さんはC型肝炎。

インターフェロンも効かないタイプなので
通院はしているが、有効な治療の手段は無いようだ。

有効な治療がないのでC型肝炎が進行して肝硬変になっている状態。

この頃は足に激しいむくみも出て歩くのも痛いし、
体の倦怠感も激しいようだ。

なので、特にどこか遊びに行く事もほとんどなかった。

家事をするのもしんどい様だが、それでも私のお弁当は作ってくれた。

本人は相当不安なのだろう。
よく”死にたくない”と言っていた。

私はもっと気持ちを強く持ってもらいたくて、良く叱ったものです。


2015年4月21日

息子から電話。
奥さんが入院したという。

私が仕事に行く前しんどそうだったので
病院に行くか?と聞くが、いいと言っていたのだが、
やっぱり具合悪くなって、ちょうど夜勤だった息子に病院へ連れて行ってもらったらしい。

仕事終わってすぐ病院へ。

胆嚢炎だったか腎盂炎だったかちょっと忘れてしまいましたが、
しんどいようだが、普通に歩けるし、
すぐに退院出来そうな、そんな感じで安心しました。



ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村  よろしければポチッとお願いします

カレンダー ▼

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

駿河屋スタッフ募集中 好きを仕事に!駿河屋スタッフ募集中!


キャラクターグッズ・フィギュア・おもちゃ、ホビー通販サイト ホビーストック

プロフィール ▼

今日も てくてく

HN:
ヒロ
性別:
男性
職業:
派遣社員
趣味:
映画鑑賞、スロット
自己紹介:
はじめまして、ヒロと申します。
15年ほど普通の会社勤めをした後、パチスロで4年ほど生活する。
限界を感じ就職。
2015年7月
奥さんが肝臓移植手術を行うが酷い感染症のすえ亡くなる。
これをきっかけに退職を決意。
翌年1月末で退職することにしたその時、
大腸ガン発覚→手術
現在無職です。




漫画全巻ドットコム

スポンサード リンク

ブログ内検索

ブログランキング参加中

最新トラックバック

ブログ内検索

カウンター




アクセストレード パートナーサイト募集