
2015年7月21日1時7分
お母さんが亡くなった
みんな泣いていた
みんな悲しんだ
もちろん私も
でも、これから告別式の準備をしていかなくてはならない
喪主は私がすることになるだろうし
悲しんでいる暇はなかった
喪主をする人は通常 故人の一番近い人
故人が亡くなって一番悲しむ人である
にもかかわらず告別式の準備や喪主など、忙しく行わなければならないのは
悲しみを紛らわせる意味もあるのではないだろうか
みんなICUから出て控え室にいると担当の先生が来られた
解剖に協力して欲しいと言うことだ
大学病院だからそうなるだろうと思っていた
お母さんを大切に扱っていただけるなら
と、了承した
解剖のことはみんなには言わなかった
いや、言えなかった
すぐにはお母さんを連れて帰れないので
みんなには一旦帰宅してもらう
告別式は身内のみでひっそりと行うつもり
自宅近くの小さなセレモニーホールにお願いした
21日12時に病院まで迎えに来てもらう事になった
一旦私も帰宅した
帰ったら真夜中3時頃だったかな
少し寝ようと思ったが眠れない
しばらくして、悲しくてどうしようもなくて、
お母さんに着せるための新しいパジャマを持って再び病院へ行った
解剖は終わっていてお母さんに会わせてくれた
6月30日に生体肝移植手術を行い、息子の肝臓が半分お母さんに移植され
21日までの間に、移植されたお母さんの肝臓は1,3倍に成長していたそうだ
ちゃんと肝臓は付いたのにな
手術は成功したのに・・・
しばらくお母さんの横に居て
ICUを出た
その後は車の中で朝をむかえた
12時前、
お母さんが安置されている場所へ行く
簡単な祭壇になっている
移植コーディネーターの方や看護師さん、肝胆内科の先生などが見送りに来てくれた
手術を担当してくれた先生は他の手術のため来れないらしい
先生は本当に全然寝てないのではないだろうか?
先生に最後にお会いしたとき、
申し訳ありませんと泣いてくれた
私は先生に恨みなど持っていないです
むしろ感謝しています
先生、大変お世話になりました
ありがとうございました
12時ちょうどにセレモニーホールの車が到着
お母さんを車に乗せて
見送りに来てくれた皆様にお礼の言葉を言う
今回はこのような結果になってしまったが、
お母さんの死を何かの役に立てて下さいと、
これからも一人でも多くの命を救ってくださいと
移植コーディネーターのお二人はとても顔なじみになっていたのだが
二人とも泣いてくれた
他にも泣いてくれた方がいた
病院に対しても恨みなど持っていない
本当にお世話になりました
会場のつごうで
22日にお通夜
23日に告別式となった
お通夜も告別式も、どこで聞きつけたのか大変大勢の方々が来てくれた
告別式では座る席が無いほどだった
こんなに大勢の方々にお母さんは慕われていたのだなと
あらためて感じた
私はお母さんに対して申し訳なさで一杯だった
告別式も滞りなく終わり斎場へ
点火のスイッチは私が押す
申し訳なさがさらに深まる
生前お母さんは
私が死んでも一人でお墓に入るのは寂しいから
と言っていたので
遺骨は今も自宅の仏壇にある
毎日、朝・晩お母さんに声をかけている
お母さんが亡くなって1年半以上経ったが
お母さんに対しての申し訳なさは未だある
お母さんの人生どうだったのだろう
私と結婚して良かったのだろうか
もし私と結婚していなかったらこんな事にはなってなかったのに…
あの時なんでもっとやさしく出来なかったのか
あの時ああしておけば…
申し訳ないのと後悔ばかりです
私は現在49歳ですが
人によっては再婚などと言う人もいる
再婚は全くする気無しです
私の奥さんはお母さんだけでよい
それに多分、私は女性を幸せに出来ない人間なのではないかと思います
お母さん、本当にごめんな
今度生まれ変わるなら
もっと健康でもっと裕福なところへ生まれておいでよ